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安倍晋三13  2001-2002

新・英雄伝

 この二人の不仲には、安倍が議員になって以降、日本赤軍によるダッカ事件の時の福田赳夫首相の対応を「テロリストに屈したと世界から非難された」とあちこちで批判していたことも関係しているだろう(ダッカ事件については、「安倍晋三3」参照)。当然、福田赳夫首相の息子である福田康夫官房長官は不愉快に思う。安倍は1977年に起こったダッカ事件だけを取り上げるが、実はその前にクアラルンプール事件というのがあったではないかと、福田康夫は言いたいのだ。クアラルンプール事件とは、1975年8月4日、武装した日本赤軍のメンバー5人が、マレーシアの首都クアラルンプールにあるアメリカの大使館を占拠し、総領事ら52人を人質に取った事件だ。犯行グループは、日本国内で拘留されているテロリスト7人を釈放した上、日本赤軍に参加させるよう日本政府に要求したのだが、日本政府はこの要求に応じ、「超法規的措置」として7人に日本赤軍への参加意思を確認、参加意思がある5人を釈放・出国させたのだが、この措置を決めたのは三木武夫内閣だった。福田康夫としては、ダッカ事件はこの前例に沿っただけで、非難するなら福田赳夫ではなく、三木武夫を相手にすべきだという気持ちなのだ。

 ともかく、安倍晋三と福田康夫は考え方が大きく異なっていた。普通に考えれば、官房長官と官房副長官で考えが違うなら、どちらかを交代させるべきという話になる。しかし、もともと福田赳夫の書生で、そして安倍晋太郎にも様々な恩義があった小泉総理としては、彼らの忘れ形見である康夫と晋三のどちらも傷つけたくはないのだ。そこで、小泉は二人を起用し続け、北朝鮮の問題については、以下のように二人を使い分けた。

 まず、小泉は拉致問題を打開すべく、北朝鮮との交渉を福田官房長官、外務省幹部と極秘で進めることにした。そして2002年8月に小泉総理は、国交正常化と補償問題、拉致問題、核・ミサイル問題について、双方が真摯に取り組もうと呼びかける親書を金正日総書記に送った。この親書の存在は川口順子外相や安倍官房副長官には知らせていなかったが、この親書がきっかけとなって小泉の訪朝が決まった。背景には、この年の1月にアメリカのブッシュ大統領が、一般教書演説で核兵器の開発などが疑われている北朝鮮、イラン、イラクを悪の枢軸と表現し、今後何らかの強硬措置を取ることを匂わせたことがあるが、ともかく福田官房長官・外務省ルートで訪朝の段取りをつけることが出来た。すると、今度は小泉は、安倍に北朝鮮に同行するよう求めた。小泉流の巧みな配慮だ。安倍は、自身が知らぬ間に話が進んでいたことは不満に思ったが、ともかく小泉総理に同行することになったので、この機会に拉致問題を解決せねばと意気込んだ。そして、外務省に対して日朝両政府が出すことを予定している共同声明の文案を見せるように要求した。しかし、これについては、約束の時間の直前にキャンセルになるという繰り返しで、安倍は訪朝の前に文面を見ることはかなわなかったという。

 ちなみに、訪朝前の9月11日、海上保安庁が前年末に巡視船「あまみ」に対して銃撃を行い、自沈した不審船を引き揚げた。不審船から無線機など工作活動に使用された物品が発見されたので、この引き揚げは北朝鮮政府を心理的に追い詰める効果はあったはずだ。

 9月17日、安倍は小泉首相に同行して、北朝鮮に乗り込んだ。

コメント

  1. 並木橋 より:

    いつもながら、マスコミ報道の背後にある事実を知ること、知ろうとすることが大切と感じました。
    それにしても、岸田首相の派閥解散の発言には驚かされました。ネット上でもいろいろな意見が飛び交っているようですが、議論されること自体にも意味があると思います。